つながっている/かさなっている

大木裕之< オーマイゴッド/イ・チ>@artcenter ongoing

世にいうシンクロニシティ=共時的現象は、身近によく起こっている気がしますが、いちいち記録しないので、ほどなく忘れてしまうことがほとんどです。まったく夢みたいなもんで。しかもよくよく考えると実はそもそもがつながっていることも多々あり、その言葉をわざわざ持ち出さなくても、単に偶然だこと!くらいにとどめておけば好いのかもしれませんが、まあ、劇的に演出したくなることもあるので、少し大目に見ていただけたら幸甚でございます。

吉祥寺駅北口から歩いて10分弱のアートセンター・オンゴーイングには、展示をみるために度々足を運びます。この日はたまたま普段とは逆の善福寺公園の方から歩いてきました。日も暮れていたし、果たして行ったところで何か好いことがあるのかも判らないままトボトボとたどりつくと、モヒカン刈りの作家が大勢の(10人ほどでしたが、ここの場合充分に多い)人たちに囲まれて賑やかな集いができていました。何か好いことがあるのか判らない、というのは、ここでみる展示の大半は私にとって意味不明なものだからなのです。逆にいうと、ここで鑑賞の耐性をつければ、たいていの高難度な展示には対応できる、あるいはたいていの作品を忌避感なく凌げます。失礼ないい方をお許しください。どちらかというと鑑賞者としての未熟がなせる無理解ゆえのわからなさなのでしょうから。

ヒッグス粒子について語る山本均教授(大木裕之《オーマイゴッド》)

モヒカン刈りが印象的な作家、大木裕之の個展< オーマイゴッド/イ・チ> @artcenter ongoing もまた、そう分かりやすい展示ではありません。主たる展示スペースであるアートセンター2階には、即座に意味が汲みとれないものが床に乱雑に散らかされ、壁一面に12分ほどの映像作品が投影されていました。映像は、研究者らしき人物のインタビューから始まります。研究者は、数年前にその存在を観測されたヒッグス粒子が、何もないはずの真空から顕現するさまを、大乗仏教の根本原理である「色即是空 空即是色」になぞらえて語ります。

ちょうどこの日、私は量子論と華厳経の相同性を説く本を読んでいました。中沢新一『レンマ学』。

レンマは、ジレンマ・トリレンマのレンマ。元はテトラレンマといって、世の中のありようを4つに分けた考え方から始まったそうです。「あれ」や「これ」やだけでなく、「あれもこれも」と「あれでなくこれでなく」という4区分で考えるべし、とのこと。サンスクリット語のギリシャ語訳なので、もとは古代インドに起源をたどれます。この4区分の中から、「あれ」か「これ」かという2区分だけをとりあげた考え方がロゴス。しかし因果律に支配されるロゴスは、もっと内奥に動く縁起の論理法であるレンマに包摂されるのだといいます。

大乗仏教を体系化したナーガルジュナ(龍樹)は、テトラレンマのうち「あれでもなくこれでもない」区分を重視しました。あれを否定に、これを肯定にすると、否定でもなく肯定でもない。仏教開祖のブッダは「あらゆる事物は相互に依存して相関しあっている」と説きました。それをナーガルジュナは、否定でもなく肯定でもない論理道具を使う思考で、否定でもなく肯定でもない両者の中間こそが世界の実相に同調できる論理であると解釈したのです。色即是空、いっさいのものは空であると。一方で、北方の大乗仏教の思想家、世親や無着たちは、空即是色、空は充実した力を内蔵し、緒現象はその空から生起するとしました。 いずれの考え方も時間的前後関係に縛られる因果だけではなく、あらゆる物や事、場合によっては心までもがつながって動く縁起の論法に従って動きます。中沢新一は、この色即是空の空論と空即是色の唯識論を統合した華厳経を軸にレンマ学を構想するのだそうです。

ちなみに、中沢は、華厳経に展開された縁起の論理を、近代科学の方法論に組み込もうと試みた人物として、思想家の南方熊楠を挙げます。熊楠が熱心に研究した粘菌もまたレンマ的存在です。中枢神経を持たないのに、知的活動を可能にする生態についての知見が近年でも重ねられています。

中沢は、宗教はもとより、 心理学、言語学、数論、細胞の共生進化などの生物学、量子論にいたるまで、レンマの論理で説明します。この脈絡で ユングの心理学に登場するシンクロニシティが登場します。因果的結び付きがないのに、意味ありげに関連し合っているシンクロニシティ。因果律で結びついている表層のロゴス的な現実の下には、偶然の集積によるレンマ的な結合が潜んでいて、互いに連関しているのです。こうした構図から、非線形的で因果律に縛られない量子論との相同性に至ります。量子論では、量子は位置と運動量を同時に決められないので、量子の存在は確率的にしか表せません。

量子論では、この世の中の力をある程度統一して説明する標準理論で存在が予想された最後の粒子・ヒッグス粒子は、そこここの何もない空間に満ちていて、その場がエネルギーを帯びてざわめくと、とび出してくるのだと説明します。山本教授は、この現象を、色即是空、空即是色に喩えたのでした。

今年7月、「量子もつれ」という現象の画像記録に、英国グラスゴー大学の研究チームが初めて成功したと報道されました。量子もつれとは、ふたつの粒子が非常に強く関係し合っている状態をいいます。例えば、ふたつのうち片方を観測した瞬間に、もう一方の運動の向きが瞬時に片方と対称的になる。ふたつの粒子が宇宙の端から端ほど離れていようとも、です。観測される前は、それぞれの粒子の運動の向きは、どちらでもある状態です。これは「重ね合わせ」と呼ばれ、非常に不可思議な量子独特の性質です。運動の向きが「右でもあり左でもある」という状態で、観測された途端に、量子もつれの状態にある片方の粒子の運動の向きがが右になったその瞬間に、もう一方が左になるのです。

PHOTOGRAPH BY SCHOOL OF PHYSICS AND ASTRONOMY,
UNIVERSITY OF GLASGOW

この、従来の科学を超える俄かには理解し難い量子的な挙動こそ、レンマの論理で展開される縁起の思想を裏付ける現象なのだと、中沢は説くのです。さらに、『レンマ学』では、芸術についても考察します。もっとも古い言語芸術である詩が生み出されるには、メタファー(比喩)やメトニミー(換喩)などのアナロジー(喩)が作用する必要があるとのこと。語彙の連なりの重ね合わせや移動によって、太古の人類に、詩作を可能にする心が立ち現れたと想像するのです。

想像だにしない、科学と宗教と芸術のあり方考え方の近さにまでたどり着いたレンマの思想は、いよいよビジュアルイメージとしてのアートに切り込んでいきます。中国の山水画と印象派以降の代表的画家セザンヌが登場。しかし芸術への論考が始まった途端、倒れこむようにこの大著は一旦幕を閉じます。また、前述した詩作という芸術の誕生と、宗教の起源は、メタファーの発生をもって期を同じくするという中沢の考えを知っているかのように、大木の作品は、エルサレムにある「嘆きの壁」で礼拝する人たちと、かつてここartcenter ongoingに制作滞在したユダヤ人美術家ヨナタンのインタビューを映し出します。

作品タイトル《オーマイゴッド》にある「オー」は、ヘブライ語で「光」を意味するのだそうです。大木裕之の作品は、必ずやその光の根源に迫ろうとするものであろうと期待します。

(テラコレ iwaosho)

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