分からないにはほどがある -ART DRUG CENTER(宮城県石巻市)の押入展示- 寺衆随想teracollessays②

「分からないんですよ」ニコニコしながら、そのアートセンターのディレクターはことばを発しました。場所は宮城県石巻の市街地。筆者は大規模芸術祭、リボーンアートフェスティバル2021-2022を見にきていました。正式出展ではないけれど石巻市街でリボーンフェスと同時期に開催していた地元ギャラリーの連携企画展「手つかずの庭2022」へ、石巻滞在の最後に訪れたとき、鑑賞されることを拒むような展示に眉をひそめて向き合っていた私へかけられた言葉が冒頭の「分からない」でした。

一般的に美術・アートをめぐるこうした分からなさには、振れ幅があって、ときと場合、示すものごとによる偏差を見定めなければ、「分からない」の意味するところは分からないし伝わりません。

分からない。このことばは現代のアートを外側から評するときの定型のひとつです。外側とは、アートの外、さらにコンテンポラリーアートの外側、ということもあります。さらに当該する文化の外側からみた、文化間の分からなさという場合もありましょう。

以下に、鑑賞者の立つ位置にも想像をめぐらせながら、分からない、の類型を3つあげます。

Ⅰ.アートの枠組みのなかにあるが、作品が何をいわんとしているのか分からない。凝りすぎて、か、恰好つけすぎてなのか、表現内容及び付随するテキストの意味するところが伝わらないケース。作家等によるステートメントや作品を説明するキャプションがポエム化している場合や、哲学・人類学等の芸術と隣接した領域から拝借してきた妙に高尚ぶった概念や脈絡を孕ませた作品・展示もこの事例に含まれます。

Ⅱ.アートなのか分からない。鑑賞にあたり何かをみているのは確かでも、それが何であるのか分からない。場所が展示スペースであってもただ食事をして会話を交わすだけであったり、最近多いのは(疑似的に)超常現象を体験させようとするもの、大量生産の工業製品や手を(あまり?ほとんど?)加えていない石ころやゴミを置いて作品と称するものもたびたび目にします。こうした一見アートの外側に位置するかのような体験へ導く場所は、アート関連の空間ではないこともしばしば。

Ⅲ.鑑賞側の知識や能力の不足から理解に及ばず分からない、ということもあります。ⅠやⅡは主に表現の送り手に分からない原因を求めていますが、そのなかには受け手の度量が鑑賞の受け止めを左右するため、理解伝達が阻まれるケースもしばしば。しかし、果たして鑑賞者は作家側・送り手が発信する背景や文脈を我がものとしていなければ鑑賞できないのか、解釈の自由はどの程度許されるのか、作家側はそうした知識や能力を鑑賞者に強いるのか、というアート・美術をめぐる根源的な問いにつながるでしょう。

さて、私が石巻のアートセンターで見た作品に戻りましょう。

その作品の存在には容易に気づきません。展示空間は目に入っているのに作品の存在というか作品としての主張がなかなか目に入りにくい。端的にいうと見えないのです。透明なプラスチック板がうねるように配されていてその表面に油性マーカーで細い線が書きつけられています。裏から蛍光灯がプラ板を照らしているため逆光となり、余計よく見えません。さらに見えにくさを際立たせているのが、その展示スペース自体。そこは押し入れなのです。

『形而工作室 石巻ADC引込線』と名づけられた
ART DRUG CENTER(アートドラッグセンター)2階にある押入下段の展示スペース

和室の設えを生かしたそのギャラリーでは、ふすまを取り外した押し入れが展示スペースとなっています。押し入れの区画ごとに異なる作家が出展していて、なかには押し入れに鎮座する船箪笥の引き出しを開けると、作品を鑑賞できるという趣向の区画もあります。(これは漫画でいうと松本零士的な空間に藤子不二雄的空間が内包されているというイメージですが脱線してしまうのでここでは控えます)そうしたなか、一見何もないただの押し入れに、何が書きつけられているかも分からない物体が漂っています。すがるようにすぐ横の壁に掲げられた作品のキャプションらしき説明書きと図を読みました。

ART DRUG CENTER(アートドラッグセンター)2階奥、押入の展示スペース 写真の左右と上段下段はそれぞれ別の作家や団体が展示している

作家名:形而工作室 の作品《平面図》の「ドローイング部分の発想原形」という見出しのついた説明文と図はこんな感じです。「乱線」と記された図A.には、「運動の充満してる空間」というキャプションに、流星の軌跡のような直線がランダムに飛んでいます。図B.「軌跡」には「軌跡の交錯」という説明が添えられています。Aの「乱線」では、直線がランダムに飛翔しているのに対して、Bの「軌跡」には、円を描くような曲線や台形のような幾何学的な形状が見えます。図C.「断面」には、「幾何学的とカオスの中間」と注釈が加えられていますが、これはよく分からない。しかしBとCはどうも似ているだろうことが、その隣に図示されているAやB、Cの事例をみるとそこはかとなく感じられます。

『形而工作室 石巻ADC引込線』(ART DRUG CENTER 2階押入下段)《平面図》展示スペース横にあった説明 図の詳細は下に別途掲載した拡大画像を参照

この「発想原形」を読んだうえでドローイングを含む展示を改めて見ました。押し入れには相変わらず、図面にあるような細っこい線が書きなぐられた透明プラ板が、全体像を見せるのを拒むかのように局面を描いて設置されています。やはり超絶的に分かりません。途方に暮れて打ち合わせ中らしきアートセンターディレクターの方をみて「分かりません」と声をかけました。返ってきたことばが「分からないんですよ」。その存在感希薄なドローイングが設置されたスペースには、形而工作室という名の同じ作家が、数か月ごとに新作を展示しているとのこと。そして常にそれらの作品は「分からない」のだというのです。さらに、分からないのだけど、おもしろいのだとも教えてくれました。

さて、分からないのにおもしろいとはどういうことか。先に挙げた分からなさの類型を参照しながら考えてみます。この作品がⅠ的な分からなさを発揮していることは確実でしょう。これについては後ほどまた考えます。それではⅡの分からなさとは無縁なのでしょうか。作品が設置された押し入れは、いまも営業している青果店の2階の和室にあります。アートセンターという看板をみて入ったスペースではありますが、そのとき私は和風トラッドな木造民家の押し入れに額を寄せて眉をしかめているのです。アートであるはずの透明プラ板のある空間は、次元の裂け目よろしく民家の中にぽっかり口を開けています。もしかしたら押し入れのようにみえてそうではないのかもしれないという不安。依然、この場所性と相まって、見ているものがアートなのか揺さぶりをかけてくるかのようです。Ⅲはどうでしょう。作品空間をみる私の習熟度が低いために理解できていないのかもしれません。それは「分からないんです」と言ったこのアートスペースのディレクターとて同じかもしれません。

ART DRUG CENTER(アートドラッグセンター)は青果店の2階にある

分からなさの度合いは、作品をきちんと見て測るのが正しい。しかし、分からないものと向き合うのは難儀なことです。このケースの救いは、「分からないけどおもしろい」のおもしろさを感じられるかもしれない、という希望が持てること。

展示作品を子細にみてみましょう。押し入れの中を飛ぶマーカーペンの線には、どうも像を結びにくくぼやける部分があります。ほどなく透明プラスチック板が2枚あることに気づきます。1枚は押し入れ奥の壁から床まで渡して凹状に曲がっています。もう1枚は逆に鑑賞者の側へ凸状にせり出しています。それぞれに線が描かれているため、片方の面に焦点を合わせると、もう片方の面はぼやけてしまうのです。空間を立体的に使った構成なのだな、と若干納得します。

プラスチック板、手前が凸状に、奥が凹状に曲がっている 形而工作室の作品《平面図》 石巻ADC引込線(ART DRUG CENTER 2階押入下段)

しかしいったい、この乱れ飛ぶ線や折り重なった線の束は、何なのでしょうか。私は世の中のものごとや美術作品をミクロやマクロの物理現象として捉えることがよくあります。この作品の鍵となる複数の線も、原子や電子、もっと小さな素粒子のふるまいに見えなくもない。しかも、この作品の作家名、形而工作室の「形而」は、形を備えたもの、物質的なもののこと。これ大事です。字義通りに考えると「形而工作室」は形あるものをうまく作る機関となります。ちなみに「形而上」というと形のないもの、神さまとか超自然的なものごとを指します。「形而」ということばは「形而上」との対比で「形而下」といわれることも多く、英語では単にphisics 、つまり物理(学)なのです。

マーカーペンでプラ版に書き殴ったような線…よく見えない 形而工作室の作品《平面図》石巻ADC引込線(ART DRUG CENTER 2階押入下段)

それでは物理現象として作品を解読します。発想原形の「図A.乱線」をみると、直線がさまざまな方向に飛んでいて、それぞれはあまり干渉し合っていないようにみえます。素粒子のニュートリノやミュー粒子のように透過性が高くエネルギー量が多い粒子線でしょうか。
「図B.軌跡」では、円形にグルグル回る線がみえます。図Aから類推すると、これは素粒子を超高速で飛ばす加速器の内部を描いているのではないでしょうか。質量の起源を説明する新しく発見された素粒子、ヒッグス粒子の存在を観測したCERN(欧州合同原子核研究機構)にあるLHC(大型ハドロン衝突型加速器)は、山手線の周回距離に匹敵するチューブ状の筒のなかで、粒子を逆方向に飛ばして衝突させることによってミクロの世界の法則を実証しようとする巨大装置です。

『形而工作室 石巻ADC引込線』(ART DRUG CENTER 2階押入下段)《平面図》展示スペース横にあった説明(拡大)

同じく「図B.軌跡」にある台形は何でしょうか。これはパースがついた平面かな、と私は思いました。パース(ペクティブ)とは、絵画でよく登場する線遠近法のことです。消失点から放射状に伸びる直線が配された図では、線が集中する方向に遠くなり、線が拡散する方向に近くなります。もとは格子状に区切られた空間を、線遠近法に従って平面上に配置したときに台形が現れます。これが台形の存在がパースのついた平面を感じさせた理由です。例えば、地球儀で緯度と経度を一度ずつずらして得られる四角形は、(極点を含むもの以外は)どれも球面上に台形を描きます。この場合は球面上ですが、その他の場合でも、空間がゆがむとき台形は頻出します。そう、押し入れの展示空間はゆがんでいるようなのです。

素粒子が飛び交う押し入れの中の反った透明プラスチック板は宇宙の多層性を表しているのではないでしょうか。私たちが知覚している3次元ないしは空間3次元に時間を足した4次元は、多次元時空の投影であり、宇宙は多次元なのだと説く研究者がいます。これも実証されてはいませんが、宇宙の成り立ちを考えるうえで現在有力な仮説のひとつです。

例えば空間が3次元でなく4次元あるとすると、3次元にxyzで表される直交座標系の軸はもうひとつ増えてxyzwと4つになります。4方向に伸びる直線が互いに直角に交わること自体、私たちが知覚する世界では無理筋に思えますが、空間4次元、時空5次元なら可能なのです。もし目に見える3次元座標が実は投影されたものだとすると、直線にみえるxyzの座標軸は実は歪んだxyzw軸が投影された結果なのかもしれません。あるいは逆に、私たちの観測が狂っていて、実は直線にみえるxyz軸は超微視的に、か超巨視的には曲がっているのかもしれません。

そうしたさまざまな可能性が本当なのかは今現在の科学理論が到達した地点からは厳密には分かりません。また、なぜドローイングが油性マーカーの殴り書きなのか、はたしてそれはサイ•トゥオンブリーのような先行する画家を参照して選択した描き方なのか。なぜOSB合板(端材を集めて成形した合板)で押入に内装を施しているのか。狭い空間の内壁や床に広がる端材の模様にまぎれて描かれた線は見難いことこの上なく、押入内に仕込まれた蛍光灯が逆目に透明プラ板を照らすので、目眩ましに拍車がかかっているのも意図したことのように思えますが、それも不明。

分からなさが分からなさを招いているように、謎は深まります。先に書いた、この展示スペースがあるアートセンターのディレクター有馬かおるさんが、分からなさを語るときの語り口が実に印象的でした。もう一度振り返ります。「ナスさん(形而工作室の本名)はいつ(の展示で)も分からないんです」。有馬さんはニコニコ笑いながらすかさずつけ加えます。「でもいつもおもしろいんです」。分からなさを分からないままで受け入れる度量の広さは押し入れ空間を優に上回ります。押し入れの宇宙の広さはアートの領分の広さにつながっているでしょう。その深淵なる時空は探索すべきものごとで満たされています。分からないことがすべておもしろいというわけでは決してありません。なぜか際限なく問いかけを発せざるをえないほどの分からなさが、えもいわれぬおもしろみをかもしてしまうのだろう、とひとまず締めてみます。(iwaosho)

 参考・追補 

アートドラッグセンター(石巻)のブログページ https://artdrugcenterishinomaki.blogspot.com/

形而工作室のツイッター https://mobile.twitter.com/on_off_shape

リボーンアートフェスティバルのHP https://www.reborn-art-fes.jp/ 

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