寺衆随想teraccollessays④展覧会レポート         高嶋晋一+中川周「無視できる」

作家名:高嶋晋一+中川周
展覧会タイトル:無視できる
会場ギャラリー:gallery αM(馬喰横山)
会 期:2023年1月14日(土)~3月11日(土)

高嶋晋一+中川周の映像作品(スチール)

 筆者がこのユニット———美術作家の高嶋晋一と写真家・映像作家の中川周———の作品を見るのは、昨年9月から10月に神楽坂のSprout Curationで開催された展覧会「経験不問」に続き二度目。このふたつの展覧会を見る限りでは、いずれの作品も2分から11分程度の短い映像である。写っているものは石ころがころがっている変哲もない地面だけで、かなり接写して撮影しており、物語性は全くない。しかも、一般的には映像は動く被写体を撮影するかあるいは、カメラの方が動くとしてもゆっくりパンやチルトするのに対し、彼らの映像はカメラが激しく動いて撮影されている。例えば、新幹線の車窓から撮影したのであれば、遠くの山や近くの建物や畑など、遠景や近景を含んだ多様性に富んだ景色が写るが、彼らの映像は石ころと土、若干の植物の根だけの地面を接写しているので、その画面は石や土が目まぐるしく流れ去るだけだ。
 ところで、フィルム映像にしろ、ビデオ映像にしろ、映像が人間の眼になぜ動く影像として知覚されるのかということを改めて考えてみる。物理的にはコマ(フレーム)=静止画の間欠的な投影でしかない映像は、もし「機械的な眼」があるとしてその眼から見ればカクカクとしたぎこちない影像に過ぎないわけであるが、人間の眼には残像効果あるいは仮現運動によって映写されている影像は違和感ないスムーズな動きとして知覚される。———人間の眼が例えば動いてる猫を直接肉眼で見た場合、滑らかな動きに見えるのとは対照的である。
 この仕組みは映画の先祖であるペラペラ漫画やゾートロープから原理としては変化がない。すなわち映像は、コマ(フレーム)というメカニズムを抜きにしては成立し得ない。———絵画というメディウムのそれ以上還元できない固有性(specificity)が平面性であるのと同様である。
 高嶋晋一+中川周の映像作品は、映像という技術的支持体の固有性(specificity)を露呈させる。カメラを素早く移動させて撮影することによって、コマ(フレーム)の存在に観者の意識を向かわせるのである。つまりこのことは、映像というメディウムの約束事(convention)をも際立たせることに他ならないといえよう。

 なお、この映像作品と極めて対比的に捉えられるのは、「文化庁メディア芸術祭 25周年企画展」で展示されている、五島一浩《これは映画ではないらしい》だ。コマ(フレーム)がない動画像を作り上げた作品。そのメカニズムはやや複雑なのだが、簡単に言うとすれば、光ファイバーの束の一本一本の断面をひとつの画素とした撮像装置を使ってアナログフィルムにカメラで撮影する。一方で、映写は同じ光ファイバーの束を映写装置及びスクリーンとして、アナログフィルムの映像を映し出す仕組み。つまり、コマ(フレーム)がないので「映画ではない」というタイトルになっているのだ。おそらく人間の目のメカニズムは、これに近いものに違いない。ちなみに、光ファイバーの束は18✕18=324画素なので画像はかなり粗いが、ファイバーの本数を増やせば理論的には8Kにもできる。(寺田倉庫B&C/E HALLにおいて、2023年2月14日まで開催。)

五島一浩《これは映画ではないらしい》

【参考文献】
ロザリンド・E・クラウス「メディウムの再発明」星野太 訳『表象08 ポストメディウム映像のゆくえ』2014年発行 表象文化論学会

【ギャラリーのサイト】
・gallery αM 高嶋晋一+中川周「無視できる」
 https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2022/vol5/
・Sprout Curation 高嶋晋一+中川周「経験不問」
 https://sprout-curation.com/exhibitions/3834/

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